西山厚氏の話に出た古書を探す

奈良国立博物館学芸部長の西山厚氏は、「鑑真和上が来日してきた時、完全に目が見えなかったのではなく、ぼんやりとは見えた可能性が高い」との説を述べています。先日(2011年1月22日)の講演では、『唐招提寺流記』という書物に「(和上はだんだんと)生の終わりに目が見えなくなった」ということが書かれてある、と説明がありました。

そこで原典に当たってみたいと思い、奈良県立図書情報館の相談コーナーでアドバイスを受けて本を探してみました。私が古書の調査に不慣れなため、残念ながら『唐招提寺流記』という題名の書物は見つけることができませんでした。しかし、『招提寺建立縁起』という文書があり、そこに次のような文章が書いてありました。

『招提寺建立縁起』の記述

「和上。寶龜七載。春秋七十有七。稍生難視之想。權隠雙樹之陰」

この意味は、

「鑑真和上は宝亀七年に年齢は七十七。だんだんと目が見えなくなってこられた。亡くなられた」

でしょう。なお、宝亀七年は天平宝字七年(763年)の間違いで、正しい没年齢は七十六歳と研究されています。

この文書を元に考えれば、鑑真和上の「春秋(年齢)七十有七」と「權隠雙樹之陰(示寂、死亡)」の記述の間に、「稍(ようやく)難視之想(=相)生ず」と書かれていますので、「(和上はだんだんと)生の終わりに目が見えなくなった」と理解することは可能になると思いました。

『招提寺建立縁起』は鑑真和上の孫弟子である豊安が835年に書いたもので、記述年は鑑真和上が亡くなってから72年経っています。

『唐大和上東征伝』の記述

鑑真和上が日本へ渡航してきた時のことを語るに欠かせないものに『唐大和上東征伝』があります。この本は、和上の弟子の思託が元になる原稿を和上の生前に書き、淡海三船がそれを圧縮して記述したもので、鑑真和上の17回忌にあたる779年に完成しています。

『唐大和上東征伝』の失明に関する記述は次の通りですが、時期は海南島への漂流後、中国南部から出発地の揚州へ帰ろうとしていた時です。

「時大和尚頻經炎熱 眼光暗昧 爰有胡人言能治目 加療治眼遂失明」

意味は、

「和上はしきりに高熱を発し、目が見えづらくなった。眼をよく直すというアラビア人がいて、和上を治療したが、ついに目が見えなくなった」

ということだと思います。

『唐招提寺縁起抜書略集』の記述

その他の古書で和上の失明に関する記述を見つけたものに『唐招提寺縁起抜書略集』があります。

「眞流日南國時。暑毒入眼。患之失明」や

「亦遭風浪漂著日南。時榮叡物化。和上悲泣失明」

と書かれていましたが、記述年が『招提寺建立縁起』よりもさらに下りますから、信用度は低くなるのではないかと思います。

ただ、ドキリとしました表現がありました。それは「悲泣失明」です。一般的には、非常に悲しくて、精神的ショックが大きくて失明したと理解できます。しかし、もしかしたら、非常に悲しくて表情態度から明るさが無くなったとも解釈できると思いました。そうならば鑑真和上は盲目でなかったと言えます。しかしどちらの解釈をとるにしても、やはり『唐招提寺縁起抜書略集』は後年の記述ですから信用性に無理があり、『唐大和上東征伝』の記述を尊重すべきでしょう。

手紙の文字と古書の記述

差出人名が鑑真和上である手紙『鑑真奉請経巻状』の存在、そしてその書状の文字が上から訂正された形跡があること、妥当な代筆者が発見できないことから、鑑真和上は完全失明していなかったのではないかと西山氏は考えを述べられます。私は西山氏の説に、ごもっともと思う反面、古書の記述年代の差が感じさせる信用性から、やはり一概には頷けないとも思うのです。

大切なこと

鑑真和上の目が見えたか見えなかったかという問題は非常に関心が持たれるものですが、大切なことは、盲目問題よりも「どんなことをしたのか」「どんなに不撓不屈で頑張ってきたか」を学ぶことのように思います。