平山郁夫画伯

<広島で被爆>

平山郁夫画伯は玄奘三蔵院伽藍の大唐西域壁画を描いた画家です。広島で学徒動員されている時に原爆投下に遭い、長く原爆症に苦しみます。東京美術学校で、同級ですが5歳年上の女性と出会います。行動派の女性で、首席で卒業し、院展での受賞も平山郁夫画伯より先という女性です。しかし二人は結婚し、女性は絵を描くことを辞めて夫を支えることに専念します。

<苦闘と転機>

平山郁夫画伯は原爆症と10年以上も芽の出ない画業に苦しみます。救いを求めて、それまで書いていた一般生活画から精神性の高い仏教画に挑戦します。玄奘三蔵法師の印度からの帰路の情景を描いた絵『仏教伝来』が高い評価を得て、これが転機になります。仏教画を描き進み、世の中に認められて行きます。

ちなみに、龍谷大学深草キャンパスの中心的建物であります「顕真館」の壁面の画像は、平山郁夫画伯の絵『祇園精舎』が元になっています。

<絵への取り組み方>

平山郁夫画伯は釈迦の生き方に関心を持ち、仏典や文学、哲学の本を読んでいきます。画伯は、「(絵には)日ごろ、描き手が身につけたもの、蓄積したものしか出てくるはずはない」と述べています。

シルクロードへ何回も行き、仏教遺跡や東西の文化交流の場所を絵に描きました。奥さんが同行しサポートをしています。

玄奘三蔵法師の印度への旅を題材にした大唐西域壁画を描くために、極寒のヒマラヤ、灼熱の砂漠、政情不安定な危険地域へ何度も行きます。そうして大唐西域壁画が完成したのです。

<文化遺産保護への取り組み>

平山郁夫画伯は文化遺産保護にも積極的に取り組みました。大唐西域壁画にも描いたバーミアン遺跡などが破壊されることは残念でならなかったでしょう。

<平山郁夫画伯の思い出@>

私は学生の頃、NHK文化講演会で平山郁夫画伯が話した内容が本になっているのを読み、衝撃を受けました。そこには冒頭に「三蔵法師の歩いた道はシャレコウベの道であった」と書いてあったのです。

仏教を深く学び、中国などへ仏教を正しく伝えようとした人は、玄奘三蔵法師より以前に何人もいたのです。それらの人が砂漠や雪山で死に、シャレコウベとなって玄奘三蔵法師が歩いて行く道の目印になったというのです。大いなる業績は、一人の人の力で行われるものではなく、多くの人の努力の積み重ねで達成されるものなのだと知らされました。

<平山郁夫画伯の思い出A>

私は、文化庁主催の2006年度の国際文化フォーラムを、奈良の西大寺境内にあります興正殿というところで聴講しました。そのフォーラムの座長は平山郁夫画伯でした。

フォーラムの終了間近に画伯が、「文化交流が平和をもたらすので、シルクロードに新幹線を走らせる夢を持とう」と話したら、会場から期せずして大きな拍手がありました。