●七仏通解偈(1)

日本で一般に釈迦と言われているゴータマ・シダッタは、歴史上に実在した人物です。

釈迦族の生まれであったために釈迦と言われるようになりました。

釈迦は「世の真実を覚った人」という意味で「覚者」、古代インドの言葉であるサンスクリット語でブッダと呼ばれました。

ブッダが音で漢訳されて「仏」となったのです。

釈迦が生きていた時代に、釈迦を含め「覚者」、すなわちブッダ(仏)が七人いました。

釈迦だけでなく、七人の覚者イコール仏の皆が、これが教えの真髄だと説いていたもの、それが「七仏通解偈」です。

なお、偈とは仏の教えや徳を称える韻文です。

●七仏通解偈(2)

七仏通解偈は仏教で「教えの真髄」と言われています。

法句経(ほっくぎょう)に書かれている漢文の七仏通解偈は「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう、じじょうきい、ぜしょぶっきょう)」です。

これを現代日本語に訳すると、「もろもろの悪いことをせず、多くの善い(よい)ことを行ない、自己の心を浄めること、これがもろもろの仏の教えである」、となります。

●仏教で善いとされること、慈悲

仏教で善いとされていることに慈悲があります。

そして魔訶般若波羅蜜経の注釈本『大智度論』には、慈悲について次のように書いてあります。

「大慈與一切衆生楽(だいじよいっさいしゅじょうらく)。

大悲抜一切衆生苦(だいひいっさいしゅじょうく)。」

これを現代日本語に訳すると、「<大いなる慈しみ>とは他人に楽しみを与(與)えることであり、<大いなる悲(あわ)れみ>とは他人の苦しみを抜く(除き去る)ことである」、となります。

楽しみを与え、苦しみを抜くことから、四字熟語で「抜苦与楽(ばっくよらく)」と表現されています。

●抜苦与楽とは

抜苦与楽とは先にも述べた通り、人に楽しみを与えること、人の苦しみを抜く(除き去る)ことです。

そこで次に問題になるのは、抜苦与楽を何に基づいて行うかということです。

判断基準と言っていいでしょう。

これに関して『法句経』には次のような一文が載っています。

「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」

ここで重要なのは「己が身にひきくらべて」という言葉です。

つまり、「自分がしてほしいこと」を人や万物にする、「自分がしてほしくないこと」は人や万物にしない、と捉えられます。

自分を基点にして考えると判断が適切になるのです。

●洋の東西で最高の教え、抜苦与楽

西洋には次のような言葉があります。

「So in everything, do to others what you would have them do to you.」

(何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい)。

これは 『聖書』 の中にある言葉で、最も大切な教えという意味で黄金律と呼ばれています。

一方、東洋には次のような言葉があります。

「子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎、子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人也」(子貢が質問しました。

一言で終身行っていくべきものは、何ですか?師は答えました。

それは恕(思いやり)だね。

自分がして欲しくないことは、人にしないことだ)。

『論語』の一節です。

洋の東西を問わず、抜苦与楽が最高の教えとされています。そして抜苦与楽の判断基準は「自分がどう思うか」です。

●奈良の薬師寺の北門「與楽門」

奈良の西ノ京にある薬師寺の北門には「與楽門」という門札が掛かっています。

與楽門の「與楽」とは仏教用語の「抜苦與(与)楽」から来ています。

この門を通る時、思います。「私達は人や万物に対して、嫌なことをしないで、喜ぶことをしているだろうか?」と。

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