第三章 吉野(一部抜粋)

・・・前略・・・

奥千本口の空気は冷やっとしていて爽快感がある。ちょっと寒いくらいだ。頭上の桜の蕾はまだ固い。多少膨らんで来たかなという枝もある。桜の木々を見ている間に、一緒にバスに乗って来た他の多くの人たちは、既に山を下って行って視界から消えた。一部の人は逆に山を登って奥千本へ向かって行った。貴一、あずさ、加奈、の三人は爽やかな空気を胸いっぱい吸って、麓に向かってゆっくり歩き出した。早春を感じながら歩く。貴一はナップザックを背負い、あずさと加奈はショルダーバッグを肩から斜めに掛けている。両手が空いているのも気分良い。道の両側は山の木々である。山を下っていくに連れ、沿道のところどころにある桜の蕾がふくらみ、いくつかの花が開きかかっている。やがて、一分咲き、二分咲き、三分咲き、そんな変化が見て取れるようになった。体も寒い感じがなくなってきた。

・・・中略・・・

歩き続けて、ついに満開になっている桜の場所に着いた。目の前、頭上、ぐるりと周りを見渡す。すべてが満開の桜である。咲いてない桜はなく、散っていく桜もない。桜の花びらの一枚いちまいが薄い茶色の葉と細かく混ざって全面に広がり、ヨーロッパの点描画のようである。

「すごい」

感極まったようにあずさが声を上げて立ち止まる。加奈も同じだ。

「ここの辺りが上千本から中千本に変わっていくところです」

多くの人が満開の木の下や空地で花見の宴をしている。みんなこの上なく楽しそうだ。十数人のあるグループは、全員が横一線になって向こうの山の桜を見ながら花見の弁当を食べている。その人たちの嬉しさが、ずらり並んだ後ろ姿から伝わってくる。登山用 のコンロでお湯を沸かしている家族連れがいる。シートを広げて缶ビールやお酒を飲んでいる団体がいる。そんな人たちを左右に見ながら三人は満開の桜の下を歩き、山道を下って行く。

・・・中略・・・

蔵王堂から出て右手の階段を下りた。満開の桜の大きな木があって、ちょっとした広場になっている。花びらがちらちら、ひらひらひらと翻りながら散っている。貴一はそこへ行く。二人もついて行く。満開の桜の木を見上げる。白く小さな花びらが二つ、一つ、三つと舞って来て地面に下りていく。

軽く風が吹いた。その瞬間、無数の花びらが一斉に樹から解き放たれ、宙に舞い、散って来た。あずさと加奈の顔がたくさんの花びらの中に見える。美しさに驚き、美しさに触れて幸せを感じている顔だ。

ひとときの花の舞いが過ぎた後に、目を細め微笑して至福の時を実感しているあずさの顔があった。貴一は瞬間的にカメラを向けシャッターを切った。立て続けに二度目のシャッターを押そうとした時、再び風が吹き、花びらが舞った。花びらの舞の向こうにカメラを意識したあずさの美しい笑顔があった。自然にシャッターが切られた。

次に加奈へレンズを向ける。加奈も嬉しそうだ。シャッターを押した。あずさと加奈の二人一緒の写真も桜の中で撮った。風が止まり、桜の花びらの舞いも一段落した。貴一はそろそろこの小さな広場から立ち去ろうとした。

その時あずさが、

「もう少しだけ、このままここに居させて下さい」

貴一は微笑んで頷き、桜に見とれているあずさを見ていた。また風が吹いた。桜の花びらが滝のように降ってくる。あずさは再び至福の時を感じた。もう少しこの素晴らしい時間を味わっていたかった。仕事に追われる日々、このような安らぎの時は久しく持てなかった。目を閉じると桜の香りが感じられ、閉じている目に花びらのたくさん舞い散っている光景が映る。目を開ければ気持ちよく晴れ渡った青空があり、くっきりとした山並みが見えた。

・・・後略・・・